なぜつまらないところには酒があるのかを考えたくて、酒があってもつまらないケースを強いて4つ上げてみましたが、酒があって楽しいケースもあるし、酒がなくても楽しいケースもあるし、酒がなくてつまらないケースもあるでしょう。
酒がなくてかつつまらないところ…仕事とかでしょうか。
ということは、つまり酒が普遍的にどこにでも入り込むものではないのか、ということが想像されます
そして、酒があっては困るところでのみ酒が無いというのが実態なのではないでしょうか。
つまらないところに酒があるのではなく、どこにでも酒があり、その上に楽しいところとつまらないところがある、ということになるように思われてなりません。
だから、酒があって楽しいところもあるでしょうし、酒がなくて楽しいところもあるでしょう。
このどこにでも酒があるということが、すなわち「アルコホリック・ソーシャル・システム」にほかならないと思えます。
酒に酔うということを、場になじむ「効能」とみるか、感覚を鈍らせる「麻痺」と見るかはその人の酒への見方によるのでしょうけれど、結果として、酒のお陰で社会が円滑に回るようになっています。
スナックも、キャバクラも、ガールズバーもキャバクラも、どれも誰かのニーズを満たしているから経営が成り立つと思えば、誰かの英気を養っているということにもなります。
つまるところ、先に上げたような「つまらなさ」にフォーカスをしているのは、私個人の教養の無さに起因しているとも言えましょう。
しかし、酒が飲めない人にとっては、酒が普遍的な要素となると、ちょっと損な気分です。
いやでも少数派に属していることを思い知らされる心地がします。
とはいえ、飲めば崩れていくことがわかっているわけですから、うまくバランスを取って生きていきたいと思うばかりです。
飲めない同盟を作って楽しむという活動なんかもいいかもしれません。
そういえば、昔読んだ『コーヒーが廻り世界史が廻る』では一時期イギリスでは酒の代わりにコーヒーを飲む文化が花開き、「醒めた」人々の生き生きとした姿が描かれていたように思います(彼らの妻たちには、いささか不評だったようです)が、そういう人間関係を作れないものかなぁと少しやる気が湧いてきます。
でも、よく考えたらこのブログのつながりが、まさにそういうものの一端を担っているのかもしれませんね。
GRDⅣにて。
日の出のような日の入り。
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