やまのてのブログ

酒を飲んだら飲まれちゃうからなんとか飲まずに過ごしたい。

結婚・出産をしないのは合理的だと思う一方で違和感があるのでイスラームを学びたい

近年は結婚をしない若者や、出産をしない夫婦が増えてきていると報道されます。


きっとそれぞれにいろいろな事情があるとは思いますので、人それぞれ一番の要因はと聞かれれば、それぞれに答えが返ってくるのでしょう。


私は男で、結婚して子どももいますが、結婚や出産をしないことは別に変なことではないと思います。


一番の原因は、資本主義にあると思っていて、そんな世の中であれば結婚や出産はしないという選択は―語弊を承知で言えば―とても”合理的”だとさえ思います。



なぜ資本主義が進めば結婚や出産から逃れようと思うのか、それは単純にコストがかさむからです。


資本主義においては、すべての物がお金(コスト)に換算されます。


これは商品だけではなく、時間や経験もすべてが市場の価値によって、すなわちお金によって計測できるものにされてしまいます。


逆にお金にできないものについては、価値がないものとする面もあります。


そうなると、人を養うということが、どれほどの価値(お金)を生み出すのか、あるいはどれほどのコストが掛かるのか、天秤にかける世の中になるのが当然です。


天秤がどちらに傾くかは、個々人の価値観によっても変わるものなので、一概にどうかは言えません。


しかし世の中は常に予測のできない事象にあふれており、子育てなどという予測のできないことにコスト(時間や労力も含めた)をかけようと考えるのは、資本主義的な観点からみれば、とても合理的ではありません。


だったらその分のお金を投資信託にでも回したほうがお金を生むわけです。


これは極端な発想かもしれませんが、資本主義とはそういうものだと私は理解しています。


結局お金は記号で、どこまであってもいいものなので、際限なく求めてしまいます。


1,000万円ためたから、そろそろ子供産むかなぁって思わないですよね。


1億円あったら結婚しますか?たぶんお金は関係ないですよね。


むしろ仕事がいやでいやでしょうがない人ほど、早く労働から離れたくてFireできる金額を投資に回そうとするわけです。


近年は低所得者層が増えているわけですから、そりゃどんどん結婚しなくなります。


(そもそもお金がなきゃ育児ができないというのも資本主義に原因があると私は考えています)



じゃぁ資本主義やめればってなると、それもなかなか難しいですよね。


だって利子に100%の税金をかけますっていったら、銀行はつぶれますからね。


さらに、この国でそれを強行しただけでは、よその国に出し抜かれるわけで、そう簡単に移行できるとは思えません。


じゃぁどうすればいいのか、っていうものの答えの一つにイスラーム(イスラム教)があるように思います。



なんでここで宗教?しかもイスラム教?と思う方もいるかもしれませんが、イスラム教を学ぶと、資本主義の嫌がることがわかります。


イメージとしてテロなどの怖いイメージがありますが、イスラム教はフラットな視点で調べてみると、すごく論理的なのに人情味のあふれる宗教なのです。


(もちろん宗教がすべてを解決してくれるわけでもないですし、イスラム教に全くなんの問題もないとは思いません)


どんなところにそう感じたかはまた改めて書きたいと思いますが、もし興味のある方は、ぜひ以下のような本を読んでみてください。

イスラム―癒しの知恵 (集英社新書)
イスラム―癒しの知恵 (集英社新書)
集英社
イスラームの論理 (筑摩選書)
イスラームの論理 (筑摩選書)
筑摩書房
Digital Ebook Purchas



イスラームを学んでみると、自分の今生きているこの世界の価値観が、ある地域のある時代の本のひと時の時代の価値観でしかないことがわかります。


その感覚を学べるだけでも、価値があるのではないでしょうか。



かくいう私は実際にイスラーム圏に行ったことがないので、実際のところはどうなのかってのはわかっていないわけですが、とはいえその理想とするところのことは勉強できるわけで、現段階では総合的にみてすごくよくできた宗教だと思っています。


イスラーム法学者である中田考先生も、その著書『イスラームから見た西洋哲学』において、以下のように述べています。


ポリティカル・コレクトネスは真のニヒル(虚無) を直視できないニヒリズムの過渡的形態の一つです。そういった言説もどんどん新自由主義に回収されつつあり、その一方で自己責任論が広まっています。それは結局、金を稼げない人間は生きる価値がないので死んだらいいという話です。そしてあらゆることがエビデンスベースで科学的、合理的に決定されるべき、という風潮が広まり、それには人間よりもAIが優れている、ということで、自分たちの運命の選択を人間ではなく機械に任せることになります。そして次に来るのは、人間のような愚かで生かしておくのに手間がかかる動物は生きる価値はなく不要である、という理論になります。このような考え方からすると、特に老人は不要です。介護の費用がかかるだけで何も生産しないわけですから。子どもも要らない。

仮にあったとしても自分には関係がないのに、なんでそんなことのために何かをしなければいけないのか、と言われたら反論はできません。そうした流れを 堰き止めることができる唯一のものが、人間も宇宙も超えた絶対者の教えである宗教です。そういう意味でイスラームが最後の希望を託すことができる宗教なのです。


ニーチェの予想した「ニヒリズムの世界」の向こう側に興味がある人は、ぜひ中田先生の本を読んで見てください。


イスラームから見た西洋哲学 (河出新書 021)
イスラームから見た西洋哲学 (河出新書 021)
河出書房新社


この本は本当におすすめなので、下のような記事も書いております。





朝の交差点

外食が苦手な自分を許してあげたい

外食はお好きですか?


自分は、昔から外食があまり好きではなく、できれば家でいつものご飯を食べたい気持ちが強い。


これは節約したいという気持ちもあるのかもしれませんが、どうも外でおいしいものを食べても、確かにおいしいとは思うのですが、もう一度それを食べたいと思うかといえば、そういうケースはとても少ないのです。


たいていはどんな味だったかもよく覚えていなかったり、じっとりと感じている居心地の悪さを覚えていることが多い。


これは冠婚葬祭でも同じで、慶事・弔辞それぞれでおいしい食事を食べているはずなのですが、記憶に残らないし、また同じように食べたいとは思わない。


できれば同じお金を払ってごめんこうむって家で食べたいと思います。



おそらくこういうことを思うのは、自分のペースが乱されるのにとても動揺しやすいという性質があるからではないかと思っています。


食べ物に集中することができず、つい周りの環境に意識がいってしまっているのではないか。


人の話していることや、食べているもの、動き、空気の匂い、厨房のやり取り、外の音、オーダーの取り方、メニューの記載、食器のサイズ・質感、照明の具合などなど、様々な情報がひっきりなしに五感を刺激する感じがあるのかもしれません。


外食というのは、むしろそういうのを楽しむためのものという意見もわかるのですが、正直私にはやかましい。


また、食べ終わっても他の人が終わるのを待ったりとか、逆に周りの人が早く終わったら急がないととか思ってしまったり。


そんな感じなので、家でいつものように、いつもと同じ食事を取ってるほうが、気持ちが落ち着き、食事にも集中ができます。



こうやって書くと、結構社会不適合者の感じがぬぐえませんが(事実そうなのだと思っていますが)、こういう人は結構多いんじゃないかなと思います。


ひょっとしたら昨今の出前ブームはそのような一人で落ち着いて食べたいという潜在的なニーズを掘り出したサービスなのではないでしょうか。


ということで「ウーバーイーツでいいんじゃない?」と私も言いたい。


ウーバーイーツを利用したことはありませんが。



ちなみに、外食は一人でするなら混んでいない店に、混んでいない時間帯に入ります。


とはいえ、一人で外食しなくちゃいけないことなんて、一日一食で過ごしていればほとんどなく、結果的に外食する機会は本当になくなってしまうのですが、私にはそれがあっている感じです。


後は、お気に入りの場所を何店か押さえておけば困りません。


我が家はだいたい外食といえばサイゼリヤ、くら寿司、ビッグボーイ、近所の中華屋くらいなものです。


これでいいし、これがいい。


食べたいものがあれば、作ればいいし、作れないなら買えばいい。


あまり売っていないものなら、居心地のいいお店を見つければいい。


多分そこまでして食べたいものはあまりないと思いますが。


別にグルメ家でもないのですから、あまり広く考えすぎることなく、身の丈にあった食事の楽しみ方をするのが、私は一番ではないかと思っています。

 




先日娘がガチャガチャで当てたウーパールーパーのおもちゃ。

いい顔してます。

こんな顔で日々を過ごしたいものです。

管理職になりたい気持ちがわからない

先日職場で管理職に向けた研修会があり、私は平社員なのですが担当者として事前の連絡、準備、当日の運営などを行っていました。


近年はズームを併用するスタイル(ハイブリッドと言う)が増えて、必ず誰か一人配信内容が正しいか(音声が途切れずに届いているか、質問者の声が届くかどうかなどの技術的な)チェックが必要になり私がその役を担っていました。


ここ2〜3年は、そんな感じで管理職に向けた研修会に参加してきた関係で、今管理職の方が置かれている立場というのがどれほど面倒なものかがよくわかります。


私の属している組織の業界は、まぁ割とゆったりしているところではあるのですが、昨今はとにかく部下の扱いが大変そうだという印象です。



困ったちゃんにもちゃんと仕事をしてもらわなくてはならない上に、権利主張をすることが当たり前になってきているので、いちいちそれに配慮、対応をしながら業務を管理することを迫られています。


「部下に休暇や育休の取得を促す」「業務を完遂する」両方やらなきゃいけないのが上司の辛いところだ…って感じなのですが、それでいて超過勤務手当がつくわけでもありません。



もちろん手当がつくので、給与としてはかなり良くなります。


具体的には100万円位は高くなるんじゃないかなと思いますが、全然割に合わないと思います。


超過勤務がついていれば月に5万円で、年間50万くらいもらえるとすると、たかだか50万円くらいのアップにしかならないわけです。


(というかそもそもそんなにお金が必要なのか?という議論もありますが)


これでやれハラスメントがどうとか、改革への対応がどうとか、長時間労働がどうとか、育休がどうとか、そんなことを考えながら働かなくてはならないなんて、とても正気ではないと思います。


幸い私の職場にはまだまだ管理職を目指したいという方が一定数いるので、しばらくは管理職候補には困らない(能力は別として)ですが、世の中的には管理職候補が不足していくんじゃないのかなと個人的には考えています。


ということで、これから更に管理職の手当は増えていくのではないかと思いますし、そうでなくては組織は持たないのではないかと、そんなことを研修を受けながら思いました。



だいぶ散っちゃってますが、青空が映えて綺麗でした。

ポルノ断ちが50日を超えて思うこと

ポルノ断ちを初めて50日が勃ちました、もとい経ちました。




ポルノ断ち自体はこれまでも何度も行っていて、50日を超えたのはこれで2回目。


初めて50日達成した時に書いた記事↓


大体ポルノ断ちだけでやるのではなく、運動などもセットで行うので、ポルノ断ちそれ自体の生活への影響というのはなかなかわかりませんが、ポルノ断ちはやめようと思えば割とすぐ離れられます。


手持ちのポルノをまずは削除して、それからブックマークを消して上げれば、あんまりそこからあえて探しに行こうという気持ちにはならなくなるはずです。


というか、ネットに触れていれば、ポルノの代わりになるコンテンツが山程あるので、多分そっちに移行するのではないかと思います。(私はそうでした)


だから結局ポルノを探す・視聴する時間は減りましたが、その分Youtubeで面白そうな(ためになりそうな)動画を探す時間が増えてしまいました。


ということで、次はYoutube断ちが必要になりそうです。


 *


Youtubeはエッチな動画があまりないし、エッチな広告もあまりないので、ポルノ断ちの観点からすればそんなに悪いサイトではないと思います。


危険なのはTwitterですね。


広告はまぁそうでもないとして、危険なアカウントが多すぎます。


そして個人のアップしているコンテンツの過激なことこの上なしです。


だからツイッターの利用については、かなり留意が必要だと感じています。


あとはそういったツイッターの人たちの投稿を過去に見ていた時には、TikTokの危険性について思いを馳せずにはいられませんでした。


私はTikTokはほとんど見たことがないのですが、危険なツイッターのアカウントの人たちはエッチトックなどと称して過激な動画を上げていたりしていました。


恐ろしいことです。


私もYoutubeやinstagramではショート動画をひたすら下にスクロールしたりしてしまいますが、エロ動画でそれができてしまうと本当に際限なくなってしまうのではないかと戦慄を覚えます。


 *


幸いにしてコンビニからはエロ本が消え、本屋でもあまり過激な表紙の本は見かけなくなりました。


他にエッチなコンテンツが現実にあるといえば、生身の世界か、レンタルビデオ屋さんの一角だけになってきていますが、生身の世界はお金がかかるので縁がなく、レンタルビデオ屋さんはどんどんなくなっているので、リアルの世界ではあまり性的なコンテンツに触れる機会が減っています。


なのでポルノ断ちをしたいのであれば、とにかくネットとの付き合い方に気をつける必要があると思います。


あとはちゃんとパートナーを大切にすることですかね。


案外これが一番人生において大切で、一番ポルノ断ちに役立つ事かもしれません。



今日はめちゃくちゃ気持ちいい天気でした。
桜はだいぶ散り始めてましたが、まだまだきれいでした。

「ただやる」ように自分を持っていく

生きていると、たまに「やりたくないなぁ」とか「気が乗らないなぁ」ということがあります。


でも、そういうことは、基本的にはやらなきゃいけないことで、たいていそういう意識を持っている時点で、それから逃げると良くないことが起きるケースが多い。


というか、逃げたことを意識してしまい、変な行動を取ったりしてしまいます。


なので、「やりたくないなぁ」とか「気が乗らないなぁ」と思った時点で、何某かの処理をしてしまうことが肝要です。


そしてそのときに大切なことが「ただやる」こと。


それにどう意味があるのかとか、それをやったらどう思われるとか、それについての考えを巡らせるのではなく、ただやる。


・ランニングであれば、ただ走りに出る。


・筋トレであれば、ただダンベルを握る


・仕事であれば、ただ処理をする


・人間関係の問題であれば、ただ会いに行く


などなど、とにかく物事を動かすために始めてしまうことで、あとは勝手にことが進みます。


いい方向に行くかどうかを考えると、動けなくなります。


動けなくなると、「やりたくないこと」「気が乗らないこと」はどんどんその大きさを増し、手に負えなくなってきます。


だから、極力その気持に気づいた時点で、すぐにやる。


あるいはそれがやれるような環境を整えておく。


そうすることで「やったほうがいいこと」をしっかりと積み上げることもできるようになるのでおすすめです。


環境を整えるには、2つステップがあり、1つ目は「やることを明確にすること」。
2つ目は「明確にされたやることをやりやすくすること」です。


例えば毎日英語の勉強をすると自分に課したいのであれば、それを見えるところに書いておく。
そして常に英語の勉強ができるようにカバンにテキストを入れておく、などです。


さらに言えば、スタートはできるだけ小さい目標がいいです。


例えば「テキストを1ページだけ読む」とかですね。


こういう小さいスタートをやるだけで、気づくとどんどん読み進めてしまうというわけです。


小さなステップを繰り返すことが、大きなことを動かすことに繋がります。


ということが、『なぜかうまくいく人の「秘密の習慣」』という本に書かれています。


とてもおすすめです。

なぜかうまくいく人の「秘密の習慣」(ハンディ版)
なぜかうまくいく人の「秘密の習慣」(ハンディ版)
ディスカヴァー・トゥエンティワン
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