やまのてのブログ

酒を飲んだら飲まれちゃうからなんとか飲まずに過ごしたい。

分かり合えるという勘違い

飲まなくなってからまだ3週間ですが、飲めば分かり合える、そんな風に思っている時期がありました。
(ちなみに、私が飲みすぎていたのは、分かり合えると思っていたからではなく、脳みそが酔っ払いたかったからです)


人と人が分かり合えるということを、私たちは特に考えずに酒を媒介として実現するものと考えたりするわけですが、よく考えてみると、一体全体どうして人と人が分かり合えるなどということが言えるのか、全然わからなくなります。
思いは、究極的には、思いを持つその人にしか、わかりません。
私たちは、その人から受け取った信号をもとに、自分で判断するだけなのです。
だから、分かり合えた、なんていうのは、悪く言えば勘違い、よく行っても思い込み、といったところではないでしょうか。
その意見に立つと、結局、分かり合えたも分かり合えなかったもないといえます。
正しくは、「私はわかった気がする」「私がわかってもらえた気がする」です。


また、飲んで現れてくるのは、あくまで動物・生き物としての姿だと思います。
だから、酒を飲まないことでこそ、その人の社会的な真実の姿が見れるように今は思います。
酒のお陰で本音が聞ける、腹を割って話せる、と言いますが、その本音を出さない、腹を割らないところにその人の意思や決意、覚悟といった人間的なものがあるのではないでしょうか。


もう一つ、酒を飲んで分かり合えたような気がするのは、多分お互いに話を聞かないからだと感じます。
そして、話を聞いていないことをもはや自分が認識しないということがあるのではないでしょうか。
要するに、言いたいことを言ったらそれに対して「いいね」がつく、そんな感じです


そんなわけで、酒を飲んでさらけ出すことが分かり合えることに繋がるというのは、少々安易かなぁとそんなことを思いました。


酒業界が「酒飲めばわかりあえる」なんて表現ではなく、もっとぶっちゃけて「酒飲めばワンチャンある」位の表現を使えば面白いのになぁと思います。




GRDⅣにて。
盆栽、楽しそうだなぁ。
やまのて写真館

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